『美しい夏の行方』 —辻邦生が愛したイタリア
辻邦生はたくさん紀行文を書いているけれど、88年のこのイタリアへの旅で「初めて素直に<旅の喜び>のなかに自分を解き放つことができた」という。それはたとえばこんなふうだ。
ローマの露天市の、果物が山盛りに並ぶ光景に「豊穣」を、「生きていることの歓喜の爆発」を感じたり、シエナのカンポ広場で「最初の妻と別れて、三冊目の小説を書いている」38歳の自分が広場を横切るのを見たりする。
ローマの主だった観光名所に始まり、アッシジからシエナ、フィレンツェ、そしてシチリアへの旅の途上に、もちろん辻邦生ならではの歴史や芸術に対する深い考察があって、その意味ではこの本は素晴らしいイタリア案内でもあるけれど、私が好きなのは彼の熱にうかれたようなはしゃぎぶりだ。大好きなローマでは幸福感で一杯になって、松の木が、―お前はローマにいる―お前はローマにいる―と繰り返し歌いかけるのを聞く(何度ローマに行ってもまだ私には聞こえてこない…)。
彼はこのとき60歳を少し過ぎた頃で、30年前初めてイタリアに来た時を思い起こしながら、感動的な出会いを重ねていく。浅黒いローマの女たち、彼女らを悪びれた様子もなく熱い眼差しで眺めいる男たち、遺跡に落ちる落日、シエナへの道で乙女が教えてくれたひまわり畑。
そしてサンセポルクロの空をよぎるツバメに「生きている不思議な幸福」を、矩形でなく平らでない広場に「自由な解放感」を感じ、いつの間にか快活なイタリア人に同化していることに気づく。
辻邦生は絶版になっていたこの本が文庫本となった99年の夏に逝った。旅が終わって肉体は日本に帰ってきても、「魂は、あの美しい迷路から出ることができない」と書いた辻邦生。今では彼の魂は、女や男が行きかうローマの小路や、アッシジのオレンジ色の屋根瓦の上や、シエナの柔らかな黄昏の中で、喜びの歌をうたっているにちがいない。
◆『美しい夏の行方』 辻邦生(中公文庫/1999年7月)
以前地元の新聞社からの依頼で書いた書評。
すごく愛着があり、何度も読んだ本です。
ブログ開設おめでとうございます!
辻邦生は好きな作家でしたが、イタリア紀行の本については知りませんでした。購入して一読したいとおもいます。
なお、邦夫と邦生が混在していますが、もちろん後者ですよね。前者では死刑乱用の法務大臣の顔が浮かんでしまいます。
大井様
コメントありがとうございます。
名前の間違い、お恥ずかしいです。修正しました。
好きな作家の名前と言えども平気で間違える私、ご指摘とってもありがたいです。
もしこの本を読まれたら、大井さんの感想もお聞かせくださいね。
コメントに限らず、イタリアに関する本や映画(だけでなくその他なんでも)などの記事も投稿していただければ嬉しいです。
これからもよろしくお願いいたします。